前九年の役・後三年の役
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| 平泉近辺における前九年の役・後三年の役の観光ポイント | |
| 安部館跡 | 安倍頼良(頼時)の祖父忠頼、父忠良、そして頼良の三代の居館 |
| 衣川柵 | 安倍頼時がこの地一帯に本拠を構えたとされる。 奥六郡の最南端の砦 |
| 豊田館跡 | 藤原清衡の生誕地であり、平泉に移る前までの居城 |
| 河崎の柵跡 | 安部貞任が朝廷軍を源頼義を迎え撃つため、兵を構えたのが「河崎の柵」 |
| その他前九年の役・後三年の役の観光ポイント | |
| 花巻城(鳥谷ヶ崎城) | 花巻城はかつては鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、安倍頼時の城柵のあった地 |
| 厨川柵 | 安倍氏が築いた勢力範囲最北の古代城柵 |
奥州藤原家の開祖「藤原清衡」が、「戦争のない理想郷」としての平泉を建設した背景には、「前九年後三年の役」と言う長きに渡る戦いがあった事が起因しています。
前九年後三年の役がどの様な争いであったかを知る事も、一つの平泉のルーツを知る事である考えられます。
◆前九年の役 坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した801年以降、陸奥ならびに、陸奥国の奥六郡は比較的平穏を保っていたが、11世紀ころになると奥六郡の俘囚(中央に帰属した蝦夷)である安倍氏が勢力を伸ばし「奥六郡」を実効支配した。
1051年安倍氏が、国司に従わず衣川の柵を越えて勢力圏を拡大しようとした事に起因して始まった戦いが「前九年の役」である。
陸奥守として赴任した源頼義と嫡子義家を最初は何度も破ったものの、1062年に出羽国仙北の俘囚清原氏が参戦する事で形勢が逆転。安倍氏は滅亡した。
戦後処理において頼義が意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予の守となり、清原武則が戦功で朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。
この役において安倍氏に帰属した藤原経清の妻であった安倍頼時の息女は清原武貞の妻となり、藤原経清の遺児(藤原清衡)共々清原氏に引き取られた。
藤原経清の遺児である藤原清衡を養子にした事は、未だ残る安倍氏への勢力への配慮があった物と考えられるが(嫡子と同様に扱った)、この複雑な跡目構造が後三年の役の伏線となってしまう。
実質1051年ー1062年までと12年間に渡る戦いであるが、前九年と呼ばれている。この理由は定かではないが、奥州12年戦争と呼ばれていた呼称から後三年分の3年を引き算して9年としただけなのではないだろうか?
◆後三年の役 清原武貞には嫡子「真衡」、養子の「経清」、嫡子だが母は安倍頼時の息女「真衡」といた。
武貞の死後、清原氏は真衡が跡をとった。
源義家は陸奥守として再び陸奥に下った。
出羽国の所領に加え安倍氏の奥六郡をも支配し、強大な勢力を誇っていた。その中で、真衡の支配に不満を持つ一族の吉彦秀武が反乱。真衡は陸奥守の義家に支援を依頼した。
真衡は出羽に出陣し、義家は真衡の館を防衛した。秀武が味方につけていた真衡の親族・清衡と家衡は義家を攻撃したが敗退ここで真衡が遠征中に急病で死亡した為、これを機に清衡と家衡は義家に降伏した。義家は許し、奥六郡を二分してそれぞれに与えた。
しかしその後家衡の不満がもとで清衡と家衡は対立する。家衡は清衡の館を攻め、妻子などの親族を殺害した。
清衡は単身逃れ、義家に援助を求めた。義家は苦戦するが家衡を滅ぼす。
清衡は清原氏の旧領すべてを治めることとなり、実父である藤原経清の姓「藤原」に戻しました。
ここで後三年の役は終結し、この後100年に渡る「奥州藤原家」が誕生する事になります。

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