奥州藤原氏
| 奥州藤原氏 平泉に拠点を置く100年にわたる地方自治を行ってきた豪族。 世界遺産登録名にもある「浄土思想」の都市「平泉」を完成させた。 |
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| 縁の建築物 | 略暦 | |
| 藤原清衡 | 豊田館・中尊寺・中尊寺金色堂 | 1087年32歳で奥六郡を領する。その後1095年頃に、豊田館より平泉に居を移し、奥六郡の政治文化の中心都市として中尊寺を再建し、平泉に壮大な都市をつくり、平泉四代100年の始祖となった。 |
| 藤原基衡 | 毛越寺・観自在王院 | 院の近臣で陸奥守として下向してきた藤原基成と親交を結び、娘を秀衡に嫁がせ、院へも影響を及ぼした。奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していた。 |
| 藤原秀衡 | 無量光院 | 藤原基成の娘を嫁にとり、中央政権にも繋がりを持ち、1170年には鎮守府将軍に任命されている。 源義経の後見人。頼朝と不和になり、逃亡の身となった義経を再び平泉に匿うが、義経が平泉入りをしてからわずか9ヶ月で病に倒れ、子の泰衡、国衡、忠衡に義経を主君となして仕えるよう遺命して没した。 |
| 藤原泰衡 | なし |
秀衡が病死したため、家督を相続した。秀衡は死去の際に源義経を盟主として従うように遺命を残していた。頼朝は義経討伐を促していたが秀衡は拒絶し、泰衡も遺命に従い度重なる義経討伐要求を拒否していたが朝廷から義経追討令が出たことなどで要求に屈し、1189年、義経派であった弟の頼衡を殺害。そして同年4月、衣川館の義経を殺害し、その首を鎌倉へ送った。さらに同じく義経派であった弟の藤原忠衡も殺害した。 義経が死んだ直後、頼朝は勅命を待たずに奥州藤原氏の討伐軍を起こして奥州合戦が行われる。奥州藤原氏はことごとく敗北し、平泉に火を放ち、三代の栄華は、灰燼に帰した。 |
| 奥州藤原氏縁の人物 | ||
| 源義経 | 衣川館・義経堂 |
平治の乱で平清盛と戦った父の敗北により鞍馬寺へと預けられるが、後に奥州平泉へと下り奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。 兄頼朝が平家打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃。 |
| 武蔵坊弁慶 | ー | 五条の大橋で源義経と出会って以来源義経に使える。 藤原泰衡に源義経の衣川の館を攻められた際、弁慶は敵兵を次々倒すが、ついには無数の矢を受けて仁王立ちのまま息絶えたと伝えられている。(弁慶の立ち往生) |
| 物件と奥州藤原氏との関わり | |
| 中尊寺 | 藤原清衡が堀河天皇の勅命を受けて伽藍を整備(事実上の創建) 前九年・後三年の役の戦没者やあまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから建立。 世界遺産の登録名にもある「浄土思想」は、落慶供養の際の願文に記されている思想。 |
| 中尊寺金色堂 | 3つの仏壇(須弥壇)があり、各仏壇の下には奥州藤原氏三代の遺体を収めた棺と四代泰衡の首を納めた首桶が安置されている。 |
| 毛越寺 | 藤原基衡が壮大な伽藍を建立、中尊寺をしのぐ規模だったという。 浄土庭園は平安末の遺構として有名 |
| 観自在王院 | 毛越寺の東隣にある。 基衡夫人が建てたと伝えられる阿弥陀堂。 |
| 無量光院 | 平等院の鳳凰堂を模して藤原秀衡が建立。 鳳凰堂よりもひとまわり大きく建てられたという。 |
| 柳之御所 | 藤原清衡・基衡の屋敷跡。奥州藤原氏が実際に住み政治を行った平泉館。 |
| 骨寺村荘園遺跡と農村景観 | 奥羽にあった摂関家荘園は奥州藤原氏が荘官として管理していた。 骨寺村荘園は「紺紙金銀字交書一切経」完成に伴い、清衡から中尊寺の僧である自在房蓮光に与えられた。 |
世界遺産申請物件